アクション映画は、劇中の出来事に対し、感情表現(怒り・喜び・驚き・恐怖・あきらめ・悲しみなど)が多く、その表現は万国共通といえます。大声や涙、表情などで表現されるため万人に伝わりやすいといえるでしょう。しかし、人間ドラマとなるとそうはいきません。アクション映画に比べ、ストレートな表現が少なく、台詞に込められた意味や演出をどう解釈するかにかかってきます。これが、見る人の生まれ育ちに大きくかかわってくると言うことです。
そこで、なぜ日本人がズバッと評価できない映画があるのか。作者が真に意図するところを日本人が理解できないかを、昨年公開された映画「路上のソリスト(The SOLOIST)」を例として、個人的見解として解説します。
日本語版予告編
この映画は、人生に迷ったLAタイムズのコラムニスト スティーヴ(ロバート・ダウニーJr.)と、統合失調症の路上生活者でチェリストのナサニエル(ジェイミー・フォックス)の物語です。この映画はロサンゼルスで、コラムニストが実際に出会った路上音楽家ナサニエルの数奇な運命をコラムに連載し、話題となり映画化されました。そしてこの二人の物語は、今も現在進行形として続いています。
スティーヴは、ベートーベンの像の前で2弦しかないバイオリンを奏でる路上生活者ナサニエルと出会います。ナサニエルがジュリアード音楽院に通っていたと知り、ジャーナリストとして興味を抱き取材をし、彼の今までの人生を知ることとなります。そして、ナサニエルをコラムで紹介したところ大きな反響を呼びました。コラムの連載を続けることにしたスティーヴは、取材を続ける中でナサニエルを路上生活から救い、音楽家として生きていけるようにできないかと思うようになりました・・・。
この映画の日本での評価は映画関連のサイトでは60点。おおかたの感想は「よく分からない」、「もう一歩踏み込んで欲しい」、「社会への問題提起」、「音楽がよかった」、「演技がよかった」など、鋭く切り込んだコメントなどは見当たりません。ではなぜこの作品が日本で深い理解をえれなかったのでしょう。
BIGLOBEでの寸評:「統合失調症患者の精神的な不安定さや繊細さを表現したジェイミー・フォックスの演技に脱帽。2人の男の心の交流を描いた感動作に終わらせず、問題提起で終わっている点が良い」(http://cinesc.cplaza.ne.jp/db/review/mo6818/)。
作品をご覧になればわかりますが、この寸評が苦肉のコメントであることが理解いただけます。他のポータルサイトにある映画コーナーも見ていただくと、日本人が深く理解できない映画であることがわかります。
では、米国人はどう感じたかを推測する手がかりが何処にあるか。それは、「キリスト教」であり「聖書」です。
参考:キリスト教信者数で見ると、米国は国民の7割〰8割、日本は1%未満。米国では書物としての聖書の研究も盛ん。2007年、iPhoneが発売時、iTunes Storeで聖書がダウンロードの上位になった。
まずは作品の中ほどにある回想シーンです。ナサニエルは音楽学校を中退し、自宅で生活していました。彼が抱える病のためか、自宅での生活は彼の精神に大きな負担を与えると共に、邪悪なささやきが聞こえるようになりました。結果、同居していた姉までも信頼できなくなり家を後にします。楽器だけを持って家を飛び出した彼を追った姉との別れのシーン。日本人の多くはそのシーンを、自身を苦しめる心の中の邪悪なささやきから逃れ、音楽とのみ生きることを決意したと理解したでしょう。
別れのシーンはこうです。家を飛び出したナサニエルを追いかけていった姉が「どこに寝るつもりなの」という台詞に背を向け、無言で橋桁のような白い建造物に向かっていきます。暗く寒い夜、アーチ型の白い建造物を下から照らす照明が入れられ、スモークがたかれていました。これは明らかに教会をイメージしており、「教会に入る」ことをイメージさせることを狙ったものと考えられます。つまり大まかに言えば「神のものとに行く」ことを意味し、心が開放され、神に一歩近づくことを意味していると考えられます。映画では、このシーンを経て路上での音楽家生活が始まり、彼の心の中の葛藤、開放へと繋がっていきます。つまり、多くの日本人はこのシーンで「教会」とイメージできないことで、映画の真意をより深く理解できないまま作品をみることとなってしまったと考えられます。(日本語版予告編:1分10秒部分参照)
また、特にスティーヴはこのシーンから心に大きな変化が現れていきます。本編では離婚した妻に自身の心の葛藤を打ち明けます。彼の心の変化を表すシーンです。ここから、エンディングに向け、俗に言う感動のシーンへと進んでいきます。
最後のシーンでスティーヴが、ナサニエルに対し、「Mt. ナサニエル。あなたの友達で光栄です」と言い、二人は握手をします。以下に記しているナレーションと繋がりますが、ここでは取材対象としてのナサニエルではなくなったと理解し、異なる境遇で育ち、過ごしてきた者でも理解しあえれば友人になれることを表現し、加えてアメリカ人はイエスが「兄弟たちよ・・・」やイエスの弟子たちが「あなたのおそばに居れて・・・」などの言葉に重ねたであろうと思います。
そしてこのシーンは、スティーヴのナレーションへと繋つながります。ナレーションの最後の4行は、キリスト教がその根底にあるものとわかります。文中の「芸術」を「神」と置き換えればそれは明らかと考えます。加えて「Mr.エアーズ」を「イエス」と置き換えてもよいでしょう。また3行目では、モノの充足が真の幸せであるのかを問うていると考えられます。
1年前、私はある不遇な男性に出会い、彼を救いたいと思った。
救えたのだろうか。
確かにいまやMr.エアーズ(ナサニエルの呼名)は、屋内で眠り、鍵を持ち、ベッドもある。
だが、精神状態と、暮らしぶりは、出会ったころと同じく不安定なままだ。
救えたといってくれる人もいる。
専門家に聞いた話では、友達ができることで脳に化学変化がもたらされて、社会性が増すのだと言う。
彼にそれが当てはまるのかどうか、友情が功をそうしたか否かの判断はつけがたい。
彼にそれが当てはまるのかどうか、友情が功をそうしたか否かの判断はつけがたい。
だが、自信をもって言えることがある。
私はMr.エアーズ(イエス)と出会って、その大いなる勇気と、謙虚さと、芸術(神)への信頼を目の当りにし、くじけず、ひたむきに 道を求めることの尊さを教えられた。
そして学んだのだ、何より救いを疑わず、ひたすら信じることの尊さを
如何でしたでしょう。アメリカ映画を楽しむ時のお役に立てたでしょうか。聖書や信仰は、その国の文化や精神に大きな影響を与えると知っていただければ、その作品が真に伝えたいことが理解でき、一層その作品を楽しめるのではないでしょうか。また、映画評論家やライター、最近では芸能人も映画について書いたりしていますが、もう少しその国の文化や精神について理解を深めていただければ、我々の足を劇場に向かせるコラムが書けるのではないでしょうか。
少しの疑問から「聖書」というものの影響力を知ることで、今まで以上に映画を楽しめるようになりました。皆さんも映画を観て「?」と思ったら、友人に尋ねてみたり、調べたりすることで、映画を見る楽しみがグッとアップすると思います。
最後に、路上生活者の名前「ナサニエル(Nathaniel )」は、ヘブライ語で「神の賜物」(「natan」 =「彼は与える」、「el」=「神」)に由来しており、「賜物」は、聖書用語で「贈りも」という意味です。つまり「ナサニエル(Nathaniel )」は、「神からの贈りもの」という意味です。
実在の二人と関係者へのインタビュー