東京での生活に別れを告げ、昨年のイブに郷里である神戸に帰ってきました。3回の東京生活で延べ12年。その間、福岡にも6年と社会へ出てからの多くは、神戸を離れて暮らしてきました。
新たに構えた自宅は、坂を下ると古くからある活気溢れる水道筋商店街。また、坂を上るとケーブルカーの駅があり、自然豊かな六甲の山へと運んでくれます。街を歩くと、通りによっては海も望めますし、まさに神戸を実感できる場所に自宅を構えることができました。
住まいは「摩耶」というエリアにあり、街から見える麻耶山にはお釈迦様のお母さん「仏母摩耶夫人」がまつられており、お釈迦様のお母さんに守られた街といえるのではないでしょうか。
神戸は西洋のみならず世界の技術や文化の入口として、それらを吸収し発信してきた街です。産業を生み、楽しむ文化を受け入れ国内に発信してきました。
神戸には日本初といわれるものが思いつくだけでも数多くあります。とはいえ戦前日本に入ってきた西洋文化やスポーツ、建築技術、航海術など、その多くが明治時代に国際港として同じく開港した横浜・長崎・函館・新潟も時を同じくして入ってきていたと思います。
神戸と横浜は産業が開花し、現代に至るまで発展を続け、人が集まり、大きな街となり、他の港より目立った存在になったゆえ西洋文化=神戸・横浜と言われるのではないでしょうか。
このようなものが神戸初といわれています(年代順不同)。
日本海軍、ブラジル移民、ジャス、パーマネント、コーヒー、駅弁、すき焼き、そばめし、豚まん、木の葉どんぶり、バームクーヘン、ティーバック、缶コーヒー、スライスチーズ、ラグビー、サッカー、ゴルフ、乗馬クラブ、テニス(?)、マラソン、近代登山、映画上映、カラオケ、水族館、ダム、西洋式庭園などや、クリスマスのオーナメントを飾ることやバレンタインデーに贈るものをチョコレートとしたことなどでしょうか。
これらは我々の生活に欠かせないモノ・コトとなりました。西洋をはじめ世界からの文化の流入は、新たな文化や産業を生み出し、全国へと発信され今に至っていることを考えると少しばかり自慢できるかもわかりませんね。
神戸の年配者は言います、「水害・空襲・震災」もう怖いものはないと、帰郷してあらためて感じるのは、阪神大水害、神戸大空襲、阪神淡路大震災と、大きな困難と悲しみを跳ね返し復興してきた神戸(阪神間)。そこには流入してきた世界のモノ・コトを模倣、吸収し、「神戸流(阪神間モダニズム)の心豊かに暮らす術」を手に入れた神戸っ子だからこそ大きな困難にも豊かな心で打ち勝ってきたのではないかと思います。
私は神戸っ子といっても、水害、空襲はもちろんのこと震災も経験していませんし、生田区で生まれ、東灘区、宝塚市、西宮市に居住したので、阪神間っ子と言うのが正しいのかもわかりません。
帰郷して最も思うのは地元民という感覚では神戸を捉えられなくなっている自身がいたことです。つまり観光客的な視点と、20代までの阪神間で暮らしていた想い出が同時に起きる「回想と発見」とでもいえばよいのでしょうか、街の変化の過程を見ていないので現実に見えるものに対しては、観光客的視点でしか見れず愛着が湧いてきません。とは言え、観光客気分で捕らえれば結構楽しく、暫くは観光客として神戸の街を楽しんで見ようかなと思いっています。
これからはエンターテイメントのみならず、日本人のライフスタイルを変えた「神戸のモノ・コト」について勉強しつつ、投稿もしていきたいと思います。落ち着いたら・・・。